宗派
西山浄土宗(総本山 光明寺:長岡京市粟生)
本尊
阿弥陀如来(木仏・座像)
由緒縁起
江戸時代の「寛文村々覚書」によると、寛文12年(1672年)には、神明社境内に禅宗堂があり、文政5年(1822年)の「尾張徇行記」には、禅宗堂とは別に、阿弥陀堂が同じ神明社境内にあると記されています。
ところが、天保11年(1840年)頃に成立した尾張藩の官撰地誌「尾張志」には「阿弥陀堂」の名が記されてなく、この頃一度、阿弥陀堂そのものが衰退したと推測されます。
しかし、それからおよそ50年後の明治19年(1886年)には、仏教教化のため、土地の名士たち有志による尾張国海東西新四国八十八ヶ所巡礼の第84番札所に選定されました。案内帳も出版されたこともあり、そのころ阿弥陀寺の復興を見たと思われます。
当時、多くの参拝者が訪れたはずで、阿弥陀寺に安置されている不動明王は、おそらくこの頃、弘法大師像とともに、客仏として持ち込まれたものと思われます。また、仏具等の寺什には、東溝口在住の寄付者名はもちろんのこと、蜂須賀・南麻績・板葺などの近在者や名古屋市内の人々の名が記されており、阿弥陀寺が幅広く信仰されていたことを伺い知ることができます。
歴代住職(堂守)
阿弥陀寺開基の心空霊誉法瑞正道法尼による記録には、阿弥陀堂以来の住職(堂守)が以下のように記されています。
第1世 思源法子
大赤見の人なり。千代「西入寺」へ転住。
第2世 淨観法子
濃州かがみの人。文化6年(1809年)3月20日死去。
第3世 円随法子
小家村へ転住。
第4世 證心法子
甚目寺の人なり。当代に今堂再建。当庵にて死去。
第5世 淨栄法子
当所の人なり。
第6世 淨安法子
北麻績の人なり。文政5年(1822年)12月5日死去。
第7世 貞暁法尼
北麻績の人なり。当代より尼僧地になる。天保12年(1841年)2月28日死去。
第8世 妙教法尼
牧野村の人なり。明治9年(1876年)8月5日死去。
第9世 聞空霊誉瑞賽法尼
出生地、中島郡千代田村大字南麻績33番戸。
山田繁右衛門2女。
昭和8年(1933年)5月8日寂。83歳。
第10世 心空霊誉法瑞正道法尼(阿弥陀寺開基)
明治21年(1888年)2月15日、出生。
明治31年3月、中島郡平和村の三宅尋常小学校を卒業。
昭和17年(1942年)3月20日、「阿弥陀堂」受持僧侶である「宇佐美源嶺(苅安賀誓願寺住職)」師の申請により、阿弥陀寺の第1世住職となる。
昭和19年(1944年)7月24日寂、57歳。
(伊藤玄法)
昭和20年(1945年)から昭和25年(1950年)の6年間、阿弥陀寺の住僧となる。
僧名等、詳細については記録がない。
第11世 高空顕勝上人縁翁和尚(阿弥陀寺第2世)
大正2年(1913年)6月11日、東京神田に横江國太郎の3男として出生。
大正12年(1923年)、10歳の時、関東大震災に遭い、生家(洋食店)焼失。遠縁を頼り蟹江に疎開。蟹江法応寺の小僧となる。
中川区日置、七宝町徳実「慈光寺」住職を経て、昭和26年(1951年)1月13日、阿弥陀寺第2世住職として晋山。
平成3年(1991年)7月15日寂、79歳。
第12世 達空顕修上人(阿弥陀寺第3世)
昭和26年(1951年)6月19日、三重県松阪市に奥田忠男の3男として出生。
中学校卒業と同時に、定時制(夜間)高校に通いながら名古屋市中川区の鉄工所に勤務し、大学在学中に当時の阿弥陀寺住職であった顕勝上人の養子となり、昭和50年(1975年)3月に出家・得度し、西山浄土宗に僧籍編入する。平成3年9月1日、阿弥陀寺第3世住職となる。
平成25年(2013年)12月23日、庫裡本堂再建の竣工披露を行う。
阿弥陀寺に安置されている仏像等
本尊阿弥陀如来像
阿弥陀様は、別名「無量光仏」とも「無量寿仏」とも言います。直訳すると「計り知れないほどの光明を放つ仏」とか「計り知れないほどの命を備え持つ仏」という意味です。西方極楽世界に住んでいて、衆生に仏法(教え)を説いています。
浄土宗や浄土真宗など浄土教と言われる宗派は、この阿弥陀如来を本尊としており、法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱え阿弥陀仏の姿(教え)を念ずることによって、西方極楽浄土の世界に往生する(生きて往く)ことができると説いています。
阿弥陀様の温厚な顔立ちを見つめることにより、自分自身の心を浄化させて、阿弥陀様のような穏やかな顔で生活したいものです。
善導大師立像
法然上人が修行されているとき、上人の夢枕に「半金色の善導大師(腰から上は黒の衣姿、腰から下は金色の衣姿)のお姿」が出てきたと言われています。そして、夢から覚めた法然上人は、「念仏往生」の悟りを開き、浄土宗を開宗されたと言われています。
なお、善導大師は、当時の仏教に大きな影響を与え、阿弥陀仏によって衆生が救われるという「浄土教」を確立した高僧でした。浄土真宗を開いた親鸞聖人も、善導大師の教えを引き継いでおり、「正信偈」の中に何度も名前が出てきます。
法然上人立像
1113年に岡山県美作に生まれ、「日本浄土宗の開祖」と言われ、知恩院をはじめ、多くの浄土宗寺院の礎を築いた人です。比叡山で修行されたあと「念仏往生」の教えを、数多くの弟子たちに説いた人です。そのうちの一人である「西山上人」の教えを受け継いでいるのが、阿弥陀寺の宗派である「西山浄土宗」であり、「深草派」「禅林寺派」を加え、「西山三派」と言われています。
聖観世音菩薩立像
平成16年に、東溝口をはじめ多くの方の善意により、著しく損傷していたものを修理しました。
その際、胎内から古文書等が出てきました。頭髪と思われるもの、仏舎利のようなもの、近在の僧侶たちが書き記した「法華経八之巻」「南無大慈大悲観世音菩薩」という名号が書かれた写経紙など、相当数のものが出てきました。そして、この観音菩薩像の縁起が記された紙片も見つかりました。
その「縁起」に書かれた内容によると、青木紋太夫という人が、児玉村(西区児玉)にある惣見寺のご本尊前に安置する「お前立ち」を、本町(名古屋市中区)の仏師に作らせたものです。
願半ばにして病死した主人(青木紋太夫)に代わり、鈴木新助という人が、西区惣見寺内の陽岩寺や観音寺の僧侶たちとともに写経し、その体内に頭髪とともに入れ、青木紋太夫を供養したものです。
不動明王立像
密教(真言宗や天台宗)では、「大日如来の化身」で、仏教の守護神と言われています。顔は怒りの相で、右手には剣を、左手には羂索(けんさく)を持ち、背中には火焔を負っています。
不動明王は、その姿から、信仰する人々に対して「心を勇気づけ、煩悩を断ち切り、邪心を縛り、一切の悪業を焼き尽くす」と言われています。現在でも、不動明王の霊験を求め、全国各地に深く広く浸透しています。
弘法大師座像
真言宗の開祖であり、「四国八十八所霊場巡り」で有名です。本四国霊場を巡礼しているとき、挫折しそうになった弘法大師を勇気づけたのが、大使が常に念じていた「不動明王」の功徳(勇気と力)です。
弘法大師を念じるとき、「南無遍照金剛大師」とも言います。「金剛」は「金剛石(ダイヤモンドのこと)・稲妻」のことで、「堅くて壊れない」という意味があります。また、「遍照」は「遍く(隅々まで光明を)照らす」という意味になります。
西国三十三所観世音菩薩像
西国札所の1番から33番までの「それぞれのお寺にご本尊として安置されている観音菩薩像」と同じ観音菩薩(石像)が、観音堂に安置されています。観音堂は、当時の「阿弥陀堂」の敷地図面から考えると、明治初期には既に安置されていたと思われます。
他の寺院にある「四国八十八所巡り」や「新四国八十八所巡り」のできる「観音堂」と同様、この観音堂の前でお参りをすれば、その場で居ながらにして「西国三十三観音霊場」を巡ったことになります。
地蔵菩薩立像
お地蔵さんは、「弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、私たち全ての凡夫衆生を教化する(救う)」と言われています。阿弥陀寺に安置されている地蔵菩薩は、左腕に幼子が優しく抱かれており、足下には五人の子どもたちが寄り添っています。
地蔵の石座銘には、「明治19年 瑞寶尼代」とあり、牛田平三郎・幸三郎・新九郎・新三郎・傅左ェ門の名前が刻されています。また、「御詠歌講中」として、牛田松四郎・柳助・源四郎・常三郎・喜藏・幸十郎・富三郎・竹治郎の名前が刻されています。
さらには、「先祖代々 瑞寶尼代 童子一対 牛田治郎八」、「先祖代々 中島郡南麻績 童子一対 牛田治郎八 山田繁右ェ門(第9世聞空霊誉瑞寶法尼の父親)」、「童子一対 中島郡三宅村 野口辰右ェ門 名古屋 鬼頭藤十郎」とあります。そして、「取持村中」として、牛田太四郎、秀八、庄治郎、倉吉、利助、竹二郎、鉄次郎、仲次郎、吉藏、喜源治の名前があります。
六地蔵(内2体)立像
この2体の地蔵は、東溝口地内にあった「元火葬場」に安置されていたもので、土地改良整備事業の際、阿弥陀寺境内(山門西)に移されたものです。安置されていた場所から考えると、おそらく「六地蔵」のうちの二体であると思われます。
「六地蔵」というのは、六道(衆生の六つの迷いの世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つ)にいる六種類の地蔵菩薩のことです。①宝珠菩薩、②法印菩薩、③持地菩薩、④除蓋障菩薩、⑤日光菩薩、⑥檀陀菩薩の六体を言います。
聞空霊誉瑞寶法尼(第九世阿弥陀堂堂主)墓石
堂宇の老朽化に加え、明治24年(1891年)10月28日の濃尾地震による著しい損壊により、明治26年(1893年)阿弥陀堂を再建し、現在の阿弥陀寺の礎を築きました。昭和8年の没ですが、生前の大正年間に自ら墓石を建立しています。
ちなみに、阿弥陀堂は、第四世の證心法子が1800年頃に再建をして以来、この瑞寶法尼が、約80年ぶりに2回目の再建をしたことになります。